指摘されても、自分がそれをしている自覚がない。
レッスン中に明らかな変化が起きたのに、本人は気づいていない。
その場ではよくなったのに、次のレッスンでは元に戻っている。
こうした方は、決して練習が足りないわけではありません。むしろ熱心に取り組んでいる方が多いのに、なかなか成果につながりにくい。そんな場面を、私は指導の中で何度も見てきました。
あの人たちの中では、何が起きているのでしょうか。何を見ているのでしょうか。
今回は、その手がかりを「観察」という言葉から考えてみます。
見ているのは「できたか、できなかったか」
指導の中で見てきた限りですが、こうした状態の方には共通していることがあります。
見ているのが、「できたか、できなかったか」という結果だけになっている、ということです。
そしてもうひとつ。その判断のよりどころが、手応えや「こんな感じ」といった、本人の評価に寄っていることです。
そのため、こちらが何かを指摘しても、次のような言葉が返ってきます。
- 「うまくできたつもりなんですけど」
- 「まだできていないですか?」
- 「何が変わったのか、わかりません」
本人の中では、「自分の手応え」が評価の軸になっています。その軸が先にあると、外から見えた事実を差し出されても、受け取る場所がありません。これは本人の能力や姿勢の問題ではなく、見ているものの置き場所の問題だと、私は考えています。
評価は観察ではない
ここで、言葉を整理してみます。
- 評価:うまくできたかどうかを確かめること
- 観察:何が起きたかを確かめること
「うまくできたか?」と問うと、答えは「よかった/悪かった」になります。「何が起きたか?」と問うと、答えは事実の描写になります。
同じ演奏を振り返っていても、この問いの違いで、手に入る情報がまったく変わります。
「感覚」を分けて考える
ここからは、私自身の整理としてお読みください。
「感覚でやっています」「感覚がつかめない」というように、私たちは「感覚」という言葉をよく使います。ただ、その中身はかなり漠然としています。
私は、この言葉を次のように分けて考えています。
- 感覚(知覚):視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。どれも、自分の外にある情報を受け取るためのもので、評価の入っていない情報
- 評価:受け取った情報に、自己評価が加わったもの
たとえば、次のような言葉は、受け取った情報をそのまま言葉にしています。
- 「音が大きくなった」
- 「左右の腕の高さが違う」
- 「手に伝わるスティックの感じが違った」
そこに評価はありません。
一方、次のような言葉には、評価が入っています。
- 「この感じが好き」
- 「これができている感覚なのかな」
- 「これは違う」
評価が入ると、それはもう情報そのものではなくなります。そして評価には、感覚を固定しようとする働きがあります。
もちろん、好みや嗜好、個性としての評価は大切にしていただいてかまいません。演奏の魅力は、そこから生まれる部分も大きいからです。
ただ、何かを変えたいのであれば、そのこだわりはいったん脇に置いておく必要があります。こだわっている間は、変化が起きにくいからです。
「感覚」とは評価の入っていない情報(知覚)であり、そこに「評価」が加わったものは、感覚とは別のものである。
私はそのように整理しています。
ただし、知覚は「正しい答え」ではなく、ひとつの情報です。「音が大きくなった」と受け取ったとしても、それは「自分にはそう受け取られた」という情報にすぎません。信じ込む必要も、疑ってかかる必要もなく、少し距離を置いて眺めておく。そうして他の情報(録音や、外から見た様子)と並べていくことで、実際に何が起きていたかが見えてきます。
感覚だけを頼りにしてはいけないと言われるのは、この「評価」が混ざった手応えを握りしめてしまうことを指している、と私は理解しています。
ATが動きを題材にする理由
アレクサンダー・テクニーク(AT)のレッスンでは、観察の視点として体の動きを取り上げることがあります。
ところが、多くの場合、それは「動き方の話」として受け取られてしまいます。
こちらが伝えたいのは、動き方ではありません。その動きを通して、自分はそれをどう行おうとしているのか、その動きは今どうなっているのかを、ただ観察してほしいのです。
動きそのもの(結果)ではなく、その動きがどのように成り立っているか(プロセス)を知ってもらうために、動きを題材にしているにすぎません。
けれど、「どうすればうまくできるか」という頭で受け取ると、どうしても動き方の話になります。ここで、教師と生徒の間にすれ違いが生まれます。
焦りがあると、見えるものも見えなくなる
もうひとつ、あまり語られない要因があります。
レッスンは、限られた時間の中で行われます。この時間の制約が、教える側にも習う側にも、心理的な焦りを生みます。教師は慣れているので比較的落ち着いていられますが、生徒さんにとっては大きな負担になることがあります。
そしてこの焦りが、気づきの妨げになります。
制限時間つきの間違い探しを思い浮かべてみてください。時間がなければ、本来なら見つけられる違いも見つかりません。
観察も同じです。急かされた状態では、見えるはずのものが見えなくなります。
比べる対象がなければ、変化には気づけない
間違い探しには、もうひとつ大切な条件があります。
比べる絵が、もう一枚あることです。
何かに気づくには、比較対象が必要です。そしてドラム演奏の場合、その比較対象は「普段の自分」です。
普段の自分をふだんから観察していなければ、「いつもと何が違うか」は見えません。レッスンでの変化に気づけなかったり、次のレッスンで元に戻っていることに気づけなかったりするのは、この土台がまだ育っていないからかもしれません。
「感覚でできる人」は何が違うのか
最後に、これは仮説ですが、もうひとつ。
よく「感覚でできてしまう人」がいます。そういう方は、才能という言葉で片づけられがちです。
私は、そうした方は感覚、つまり知覚から得られる情報量が多く、それを評価で歪めずに受け取れているのではないか、と考えています。だからこそ、要領をつかむのが早いのではないか、と。
もしそうだとすれば、観察は特別な才能ではなく、育てていける力だということになります。
今日からできる、小さな一歩
練習のあとに、次の問いを自分に向けてみてください。
「うまくできたか?」ではなく、「何が起きていたか?」
そして、浮かんだ言葉の中に、「よかった」「悪かった」「好き」「違う」が混ざっていないかを、ただ確かめてみてください。混ざっていても、それが悪いわけではありません。評価が入っていることに気づくこと自体が、観察の始まりです。
見えた事実だけを、ひとつ書き出してみる。「音が少し大きかった」「右手のほうが高い位置にあった」。それだけで十分です。
もし録音や録画を残せるなら、後から見返すことで、普段の自分という比較対象を少しずつ増やしていくことができます。
観察は、うまくなるためのテストではありません。今の自分を知るための、静かな作業です。
著書について
自己を観察し続けるという視点は、著書の全体を通して扱っています。成否で判断するのではなく、「何をやろうとしているか」を観察のテーブルに上げていく。方法論として答えを示すのではなく、著者自身の気づきを追体験していただく一冊です。
大阪でアレクサンダー・テクニークを学ぶ
アレクサンダー・テクニークは、文章を読んで理解するだけでは届きにくい部分があります。外から見てもらう、手を通して伝えてもらうといった関わりの中で、自分ひとりでは気づけなかった習慣が見えてくることがあります。そのため私は、対面でのレッスンが向いていると考えています。
大阪(梅田・吹田)で、ドラムを題材にしたアレクサンダー・テクニークのレッスンを行っています。
