同じフレーズを何百回叩いても、曲の中に入れると崩れてしまう。逆に、自己流でいろいろ試してはいるのに、いつまで経っても安定して叩けるようにならない。そんな経験はないでしょうか。
これはドラムに限った話ではありません。楽器でも、スポーツでも、「練習しているのに上達しない」という悩みの多くは、練習の量や気合いの問題ではなく、『そもそも練習とは何をすることなのか』が曖昧なまま繰り返してしまっていることに原因がある場合があります。
この記事では、「練習」という言葉そのものの成り立ちから、練習という行為の本当の意図を考えてみます。
「練習」という言葉の成り立ち
「練習」は、「練(ね)る」と「習(なら)う」という、性質の異なる2つの漢字の組み合わせでできています。
- 習:指導者や上手い人から教わる、あるいは自分の体験から学び取ること。知識や技術を自分の中にインプットし、何度も繰り返すことで「正しく再現できる状態」を目指すプロセスです
- 練:金属を鍛えたり、生地や粘土をこねたりする動作を指す言葉としても使われ、何度も力を加えて不純物を取り除き、柔軟で強い状態に仕上げること。そこから「工夫を重ねて練り上げる」という意味に広がりました
つまり練習とは、
練習=「習」(インプット・定着)×「練」(工夫・柔軟化)
という、性質の異なる2つのプロセスの掛け合わせだと捉えることができます。
「習」とは何をすることか
「習」は、型を知り、それを反復して自分の中に定着させるプロセスです。武道や芸事でいう「守破離」の『守』にあたります。
指導者やお手本から正しいフォームやパターンを受け取り、何度も繰り返すことで、意識しなくても再現できる状態を作る。基礎となる土台を体に染み込ませる作業です。ドラムで言えば、スティッキングのパターンやグリップの型、基本的なビートの叩き方などがこれにあたります。
「練」とは何をすることか
「練」は、ひとつの型に固執せず、多角的な刺激を加えながら、その状態を観察していくプロセスです。
粘土をこねるときのことを想像してみてください。同じ方向から同じ力を加え続けても、粘土は柔らかくなりません。いろいろな角度から力を加え、その都度どう変化したかを確かめながら、扱いやすい状態に仕上げていきます。刀鍛冶が鋼を何度も打ち、折り返し、様子を見ながら鍛え上げていくのも同じ構造です。
練習における「練」も、これと同じだと私は考えています。「もっとこうしたらどうなるか」「なぜここでうまくいかないのか」と、テンポを変えたり、アクセントの位置を変えたり、あえて崩してみたりしながら、自分の状態を観察していく。ひとつの正解をなぞるのではなく、実験を重ねることで、どんな状況にも対応できる『しなやかさ』を育てていくプロセスです。
「習」だけ、「練」だけではうまくいかない理由
レッスンをしていると、この2つのどちらかに偏ってしまっている生徒さんによく出会います。
「習」だけで「練」がない場合
教わった通りに正確に叩けるのに、曲のテンポが変わったり、他の楽器と合わせたりすると途端に崩れてしまうケースです。言われた型を機械的になぞることはできても、状況が変わったときに対応する力が育っていません。反復はしているけれど、自分で工夫し、観察する経験が不足している状態です。
「練」だけで「習」がない場合
逆に、いろいろな叩き方を自己流で試してはいるものの、基礎になる型がないまま試行錯誤を重ねているケースです。この場合、工夫そのものは悪いことではないのですが、比較する基準となる「型」がないため、何がうまくいっていて何がうまくいっていないのかを判断しづらく、再現性が低いまま上達のスピードが落ちてしまいます。
「習」によって確かな基礎を自分の中に落とし込み、「練」によって観察と工夫を重ねながら鍛え上げていく。どちらか一方では、練習は本来の意図を果たせないのだと思います。
ドラムに限らず、どんな習い事にも当てはまる理由
この「習」と「練」の関係は、ドラムだけでなく、ピアノやギターといった他の楽器、あるいはスポーツにもそのまま当てはまる構造だと考えています。
- 教わったフォームをそのまま繰り返すだけの選手は、試合の中で相手や状況が変わると対応できないことがあります
- 我流でいろいろ試すだけの選手は、基礎となる型がないため、上達に時間がかかりがちです
「練習」という言葉が、特定の分野に限定されない一般的な単語として使われているのは、この2つのプロセスの組み合わせが、あらゆる技能の習得に共通する構造だからではないかと私は考えています。
観察すること——アレクサンダー・テクニークとの接点
「練」のプロセスには、「工夫を加えること」と同じくらい「その結果を観察すること」が欠かせません。
ここで気をつけたいのは、観察の基準を『感覚』だけに置いてしまうことです。「なんとなくうまくいった気がする」「こっちのほうがしっくりくる」という感覚は、練習の手がかりのひとつにはなりますが、それだけを絶対的な基準にしてしまうと、思い込みに気づけないまま同じ癖を練習で強化してしまうことがあります。
私が指導の軸にしているアレクサンダー・テクニークでは、感覚だけに頼らず、客観的に確認できることをもとに自分の状態を観察する姿勢を大切にしています。実際に叩けているか、テンポは走っていないか、余分な力みが入っていないか——感覚の「気持ちよさ」ではなく、こうした確認できる事実をもとに工夫を重ねていく。これが「練」というプロセスの質を大きく左右するのではないかと感じています。
伝え方のたとえ話——粘土と刀鍛冶
生徒さんに説明するときは、このように伝えることがあります。
「習」は、粘土の塊(材料)を手に入れること。
「練」は、いろんな方向から力を加えてこねて、柔らかく扱いやすい状態にすること。
材料(型)がなければ、こねることすらできません。逆に、材料を手に入れただけで放置していれば、それはただの硬い塊のままです。両方があってはじめて、自分の手になじむ、使いこなせる技術になっていきます。
練習とは、単に時間を消費して繰り返す作業のことではないと私は考えています。学びを自分の中に深く落とし込み(習)、工夫と観察によって自分だけの柔軟で強い技術に育てていく(練)——そのプロセスそのものを指す言葉なのだと思います。
型を覚えることも、それを崩して試すことも、どちらも練習の一部です。どちらか一方に偏っていないか、今の自分の練習を振り返ってみることをおすすめします。
この「習」と「練」のバランスをどう組み立てるかは、レッスンの中でも一緒に見ていくことが多いテーマです。オンラインレッスンでも、現在の練習方法を確認しながらお伝えしています。
この記事で触れたアレクサンダー・テクニークの考え方は、書籍『アレクサンダー・テクニーク+ドラム』でより詳しく解説しています。
「習」の反復練習には Click Automator でテンポを段階的に上げながら定着させる方法が、「練」の工夫には Groove Maker で自分だけのパターンを作りながら試す方法が役立ちます。
あなたの練習をどう組み立てるかは、あなた自身にゆだねられています。「習」と「練」、今の自分にはどちらが足りていないのか——そこから練習を見直してみるのもひとつの方法です。
