「じゃあ、具体的にどうすればいいんですか?」
説明を聞けば聞くほど、この問いがぐるぐる回って、最後は「よくわからないです」で終わってしまう。
そんな経験はないでしょうか。
レッスンの中で、私はこの場面に何度も立ち会ってきました。たとえば、こんなやりとりです。
ある生徒さんは、音が鳴る瞬間に意識が強く向いていました。そこで私は、「音が鳴る瞬間という結果ではなく、そこに至るまでのプロセスに目を向けてみましょう」と伝えました。
さらに、音を出す瞬間に指でスティックを押し込んでいる様子があったので、ボールのドリブルに例えて話をしました。ボールが地面について音が鳴るとき、ボールは手から離れています。ボールが手に当たるのは、地面から返ってきたときです。だから、音を出す瞬間に力を込めようとするのは、スティックの動きとは少しずれているかもしれません、と。
けれど、返ってきた言葉は「じゃあ、どうすればいいんですか?」でした。そして最後は「どういうことか、わからないです」。
今回は、このとき何が起きていたのかを考えてみます。
「どうすればいいの?」は、演奏と同じ構造をしている
まず、この生徒さんの演奏で起きていたことを整理してみます。
意識が向いていたのは「音が鳴る瞬間」、つまり結果でした。
では、説明を聞いているときはどうだったでしょうか。
「じゃあ、どうすればいいの?」という問いは、「正しい動き方」という答えを先に手に入れようとする問いです。
演奏では、結果(音)に意識が向いている。
説明を受け取るときも、結果(答え)に意識が向いている。
私には、同じことが体のレベルと思考のレベルで起きているように見えます。アレクサンダー・テクニーク(AT)では、このように結果を急ぐ状態を『エンドゲイニング(end-gaining)』と呼びます。
著書の中でも書きましたが、「じゃあ、どうすればいいのか」という疑問は、とても自然なものです。ただ、その疑問自体がエンドゲイニングかもしれない、という視点を一度持ってみると、ループの見え方が変わることがあります。
事実や原理は「正解」ではない
ここで、もうひとつ整理しておきたいことがあります。
ドリブルの例えで伝えたかったのは、物理的な事実です。
音が鳴るのは、スティックが打面に当たった瞬間です。スティックはそこで跳ね返り、戻ってきたスティックが手や指に当たります。これは誰がやっても起こることで、技術というより、本来起こる現象です。
けれど、この事実は「こう動きなさい」という指示ではありません。
事実は、起きていることを説明しているだけです。その事実を踏まえてどう表現するか、スティックとどう関わるかは、演奏する本人が決めることです。
ところが「どうすればいいの?」という頭で聞くと、事実が『正解の動き』に変換されて届いてしまいます。
「ボールは手から離れている」→「じゃあ、手を離せばいいの?」
「指で押し込んでいる」→「じゃあ、指を使わなければいいの?」
こうして正解を再現しようとした瞬間、今度はその「正解」をなぞる動きが始まります。そしてうまく再現できないと、「わからない」に行き着く。説明が正しいほど、かえってループが深くなる、ということが起こり得るのです。
「音を出そう」としなくても、音は鳴る
もうひとつ、あたりまえすぎて見落とされがちな事実があります。
スティックが楽器に触れれば、音は鳴ります。
どんな思いで叩いても、それは変わりません。たとえば「絶対に音を出さないぞ」と強く思いながらスティックを打面に触れさせても、音は鳴ります。
ドライに聞こえるかもしれませんが、音が鳴るかどうかに「思い」は関係ありません。
裏を返せば、音は接触した時点で鳴ることが保証されています。音を出すために頑張る必要は、そもそもないのです。
冒頭の生徒さんが音の瞬間に指で押し込んでいたのも、もしかすると「ちゃんと鳴らさなきゃ」という思いから来ていたのかもしれません。けれど、音を鳴らすためだけなら、その力は要らない『余分』だということになります。
車の運転に置き換えてみます。
アクセルを踏みながら「止まれー!」と思っても、車は止まりません。止まるためには、ブレーキを踏む必要があります。
けれど、運転に慣れた人は、ブレーキの踏み方やハンドルの回し方を、いちいち考えてはいないはずです。そこにあるのは、車の仕組みと、「加速しよう」「止まろう」「曲がろう」という意図だけ。その意図に向かって、自分が動いているだけです。
ドラムも同じだと私は考えています。
スティックが触れれば音が鳴る、というのは仕組みの側の話です。
表現したいことがあれば、自分はそこへ向かっていく。
意図として持っておきたいのは、「音を出す」ではなく、「何を表現したいか」のほうです。
表現に正解はない。あるのは「意図」だけ
そもそも、演奏に正解はあるのでしょうか。
算数には正解があります。言葉にも、多くの人が共有しているルールがあります。こうした「みんなで共有しているもの」には、答え合わせができる正解があります。
ドラムにも、そうした正解はあります。楽譜に書かれているリズムを再現できているか。メトロノームとタイミングが合っているか。こうした、客観的に捉えられることや共通の認識があるものについては、正解・不正解で確かめることができます。
けれど、それを超えた表現はそうではありません。同じ楽譜を、どんな音色で、どんなニュアンスで鳴らすのか。そして、楽譜やメトロノームに合わせるという課題に、自分がどう向き合っているのか。ここには、答え合わせのできる正解はありません。
私はレッスンで、楽譜やタイミングのように正解で確かめられる部分は確かめたうえで、それを超えた部分を「意図したものになっているか」で見るようにしています。ここでいう意図とは、前のセクションで触れた「何を表現したいか」のことです。
この違いは、観察にとってとても大きな意味を持っています。
- 正解を基準にする:基準は自分の外にあります。先生や教本と照らし合わせれば済むので、自分を見る必要がありません
- 意図を基準にする:基準は自分の中にあります。「こう表現したい」と「実際に起きたこと」を比べるには、自分を観察するしかありません
式にすると、こうなります。
意図 ⇄ 実際に起きたこと = 観察
正解を探しているうちは、観察する理由が生まれにくいのです。観察は、正解のない領域で自分の演奏を確かめるための手段なのだと私は考えています。
(「何が起きたか」を確かめる観察と、「うまくできたか」を確かめる評価の違いについては、観察するとはどういうことかで詳しく書いています。)
「わからない」はスタート地点
では、「わからない」で終わったレッスンは、失敗だったのでしょうか。
私はそうは考えていません。
「わからない」という言葉は、そこに目を向けたときに初めて出てくるものです。今まで一度も見たことのない場所については、人は「わからない」とすら思いません。気にも留めていないからです。
わからないことが、わかった。
それは、観察のスタート地点に立ったということです。
実は私自身も、ATを学び始めた頃はずっと「わからない」の中にいました。師のレッスンを受けたあと、何かが変わった気はする。でも、何がどう変わったのかはわからない。答えも返ってこない。レッスン中は、ずっと頭の中で考えを巡らせていました。
それが変わったのは、レッスンから離れた日常の中でした。そのときのことは著書に詳しく書いていますが、あの「わからない」の時間がなければ、その変化にも気づけなかったのではないかと思っています。
ただし、ひとつだけ大切なことがあります。
「わからない」を、投げやりな結論にしないことです。
「わからないから、もういい」ではなく、「何に気づけていないんだろう」と、その先に少しだけ興味を向けてみる。「わからない」は終点ではなく、そこから始まる探求の入口です。
「何もしなくていい」が伝わりにくい理由
「どうすればいいの?」と聞かれたとき、私はいつもこう答えています。
「何もしなくていいんです。うまくいかないのは、本来起こることを、無自覚に妨げているからです。『どうすればいいか?』ではなく、『何をしてしまっているのか?』という問いを持って、うまくいかないことに向き合ってみてください」
ATの考え方としては、これが核心だと思っています。けれど正直なところ、この言葉がその場ですんなり伝わることは、あまりありません。
指導を重ねる中で、理由が少しずつ見えてきました。
ひとつは、「何もしなくていい」という言葉も、「どうすれば」の頭で聞くと、新しい「やること」として受け取られてしまうことです。「何もしない」を一生懸命やろうとして、かえって体が固まったり、答えをはぐらかされたように感じたりする方もいます。
もうひとつは、「何をしてしまっているのか?」という問いが、自分のしていることがある程度見えている人に向けた問いだということです。自分のしていることが見えていないからこそ困っているのに、「何をしているか見てください」とお願いしている。問いとしては正しくても、答える手がかりがまだない状態なのです。
そこで私は、その手前にもう一段、「してしまっていること」を見える状態にする段階を置くようにしています。
- 「どうすればいいの?」→「では、今やっていることを、わざと大げさにやってみましょう」(ここでは、あえて「やること」を渡します)
- 「何か気づいたことはありますか?」(ここで観察が始まります)
- 「では、それをやらないで叩いてみたらどうでしょう?」(ここで初めて、「何もしない」が意味を持ちはじめます)
3の「やらない」は、最初から「指を使わない」という正解として渡すのとは違います。自分で気づいた「してしまっていること」をやめてみる、という順番が大切です。
「何もしなくていい」と「何をしてしまっているのか?」は、ゴールと問いとしては変わりません。ただ、そこへの入口は、もう少し手前にあるのだと思います。
「わからない」から一歩進むための小さな実験
ここからは、レッスンで実際に使っている方法をいくつか紹介します。どれも「正しくやる」ためのものではなく、「何が起きているか」に気づくための実験です。
1. わざと両極端をやって、比べてみる
前のセクションで触れた「わざと大げさにやってみる」を、具体的な手順にしたものです。
- わざと指で思いきり押し込むように叩いてみる
- 次に、指を完全にサボって叩いてみる
そして、「何か違いはありましたか?」と問いかけます。
ここで大切なのは、どちらが正しいかを決めないことです。比べること自体が観察になります。違いがわからなくても、それはひとつの結果です。
2. 答えやすい問いにする
「どう感じましたか?」という問いは、観察がまだ育っていない段階では答えようがないことがあります。
そんなときは、選択肢を用意します。
「スティックが手に戻ってくるのは、わかりましたか? わかった/わからなかった/よくわからない、のどれでしょう」
「よくわからない」も立派な答えです。それを言葉にできたこと自体が、観察の一歩です。
3. 言葉の前に、体験を置く
例えは、体に覚えがあって初めて届くものです。ドリブルの例えがピンとこなければ、実際にボールをついてみるのもひとつの方法です。
スティックなら、パッドの上にスティックを落として、跳ね返ってきたところをつかまえるだけ、という練習もあります。叩こうとせずに、跳ね返りを受け止めることだけをやってみる。言葉で理解するのは、そのあとで十分です。
4. 宿題は「わかること」ではなく「わからない瞬間に気づくこと」
練習の中で「ここ、よくわからないな」と思う瞬間があったら、それを覚えておくだけでかまいません。
答えを出すことを宿題にすると、また正解探しが始まってしまいます。わからない瞬間に気づくことを宿題にすれば、それはそのまま観察の練習になります。
おわりに
正解を求める気持ちは、真剣に上達したいと思っている証拠でもあります。それ自体を否定する必要はありません。
ただ、表現の部分では、答えは外にはありません。あるのは、あなたが何を表現したいかという意図と、実際に起きていることだけです。
「わからない」と感じたら、そこがスタート地点です。
焦らず、そこから少しずつ見ていけば大丈夫です。
著書について
本書は特定の奏法や練習メニューを提示するものではありません。「じゃあ、どうすればいいのか」という問いとどう向き合うか、リバウンドに過度に介入しようとしていた頃の試行錯誤なども含めて、著者自身の気づきを追体験していただく一冊です。
大阪でアレクサンダー・テクニークを学ぶ
アレクサンダー・テクニークは、文章を読んで理解するだけでは届きにくい部分があります。外から見てもらう、手を通して伝えてもらうといった関わりの中で、自分ひとりでは気づけなかった習慣が見えてくることがあります。そのため私は、対面でのレッスンが向いていると考えています。
大阪(梅田・吹田)で、ドラムを題材にしたアレクサンダー・テクニークのレッスンを行っています。
